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昔人の物語(51) 安藤昌益「封建体制を根こそぎ否定した八戸の町医者」

 (1)カナダ大使ハーバート・ノーマン

 八戸の町医者、安藤昌益(1703~1762)は、封建時代にあって身分・階級社会を根こそぎ否定し、完全平等の無階級社会を夢見た。その大著『自然真営道』は、1753年に出版された。門人の仙庵の序文では、やはり弾圧の危険性をとても用心していたことが伺い知れる。おそらく影響力が微々たるものだったため見逃されたのだろうと推測するが、よくもまぁ、弾圧されなかったものだと不思議に思う。

 安藤昌益の人と思想は、ほとんど忘れ去られていたが、戦後、駐日カナダ大使のハーバート・ノーマンによって、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』原書名は「Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism」、翻訳本の岩波新書が1950年に出版されて、一躍有名思想家となった。

 余談ながら、ハーバート・ノーマン(1909~1957)について一言触れておきます。とても興味深い人物です。在日のカナダ人宣教師の子として長野県軽井沢で生まれる。

 ハーバード大学でライシャワー(後に駐日大使)のもとで日本史を研究する。同大学では都留重人(後に一橋大経済学教授)らと仲間になる。都留らと社会主義運動をしたため、007映画でおなじみの英国のMI5(軍情報部第5課)はノーマンを共産主義者と認定した。

 ハーバード大学を卒業してカナダ外務省に入省し、日本に赴任する。仕事の傍ら、日本史研究を続ける。羽仁五郎や丸山真男らと交友を深める。開戦により帰国する。

 戦後、米国の要請によりカナダ外務省からGHQに出向し、GHQ側の通訳を担当する。単なる通訳の仕事だけではなく、占領政策、民主化計画、日本共産党対策に関わっている。また、歴史学者として、日本の歴史学者と交流を深めたり、前述したように安藤昌益の発掘に努めた。

 冷戦になると、米国では赤狩り旋風(マッカーシー旋風)が吹き荒れた。米国はノーマンに対して共産主義者・ソ連スパイの嫌疑を持ち、カナダ政府に圧力をかけた。カナダ政府は米国の圧力を回避するため、ニュージーランド、さらにエジプトへ転勤させた。そのエジプトではスエズ動乱が勃発した。ノーマンらは平和維持・監視のための国連緊急軍導入に功績を残した。

 ところが、米国FBIは都留重人の取り調べから、またもノーマンを共産主義者・ソ連スパイとの嫌疑を強めた。そのため、カイロで飛び降り自殺した。

 カナダ政府は一環して、ノーマンを擁護しており、カナダ外務省はノーマンの功績を称えるため、2001年、カナダ大使館の図書館を「ノーマン図書館」と命名した。

 ノーマンに関しては、『スパイと言われた外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』(工藤美代子著、ちくま文庫)、『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々』(中野利子著、新潮文庫)などがある。

(2)猪飢饉で、領民の1割が餓死

 安藤昌益は、現在の秋田県大館市二井田の豪農の家に生まれた。ただし、長男ではないため家を継ぐ立場ではなかった。しかし、極めて頭がよかったのだろう、京都へ上り、仏教・神道・儒教を学んだ。学んだが、それらへの疑問・批判を持ったようだ。豪農と言っても、身近に悲惨な困窮百姓を見て育った青年にとって、ご立派な学識を述べつつ贅沢な生活をしている知識人に違和感を覚えたのかも知れない。

 それで、味岡三伯の下で医学(漢方)を学んだ。味村三伯は日本漢方の歴史では有名人である。初代味岡三伯は、饗庭東庵に学んだ名医である。それと同時に、味岡四傑(岡本一抱、井原道閲、浅井周伯、小川朔庵)と呼ばれる超優秀な弟子を育てた。安藤昌益が学んだのは初代ではなく3代目味岡三伯である。いわば一流医学大学で医学を学んだのである。なお、日本の漢方は、大きな潮流として古方派と後世派(=後世方派)があり、味岡らは後世派に属する。

 医学修行を終えた安藤昌益は、生まれ故郷ではなく、いかなる理由かはわからないが、現在の青森県八戸市で、町医者として開業した。開業時には、すでに妻子(息子1人、娘2人)がいた。開業の年は不明であるが、1744年(44歳)には間違いなく開業していた。1744年の八戸藩の日記に、櫛引八幡宮の流鏑馬の射手を治療したことが記録されている。

 さて、八戸藩は、南部藩(盛岡版)10万石が、1664年に本藩8万石と八戸藩2万石に分割されて生まれた小藩である。

 江戸時代最大の飢饉は、天明の大飢饉である。死体の肉を食い、在町浦々、道路死人の山の如くという惨状。弘前藩では一冬で8万人の餓死者を出し、盛岡藩では人口の4分の1が餓死し、八戸藩では人口の半数が餓死した。全国的には92万人の餓死・病死を出した。天明の大飢饉は、通常、1782年(天明2年)~1788年(天明8年)をいうが、すでに東北地方では1770年代から天候不順、政治失敗により農作物の激減、農村疲弊が始まっていた。

 安藤昌益は1762年に亡くなったので、天明の大飢饉には遭遇していないが、八戸藩の「猪(いのしし)飢饉」という奇妙な大飢饉に遭遇したのであった。

 江戸時代の経済は、米中心であった。八戸藩は2万石という小藩である。また、寒冷地に位置するため豊作なんて年は珍しく、不作、不作、今年も不作が当たり前であった。そんななか、江戸方面では味噌・醤油の原料である大豆が不足するようになった。江戸周辺の大豆畑が利益の大きい木綿畑に転換していったからである。江戸の商人は、大豆を求めて、八戸へやってきた。八戸藩は大喜びで、大豆生産を百姓に命令した。村に強制的に大豆収穫量を割り当て、百姓は「大豆で疲れた」と悲鳴をあげるようになった。ともかくも、18世紀中葉になると、八戸港は、江戸からの千石船で賑わうようになった。

 大豆の生産は、山すそを焼いて耕地にする焼畑農業で行う。畑作は連作障害が発生するので、毎年、耕地を変えなければならない。休耕地の焼畑には、クズ、ワラビ、それに山芋などの根茎の植物が繁茂する。それを狙って猪が異常繁殖した。「大豆畑の拡大」→「休耕地の拡大」→「猪の大量発生」というわけだ。今日的表現ならば、生態系無視の政策が悲劇を生んだのである。

 1746年には、猪が国中にあふれて田畑を荒らし回るようになった。

 1749年秋には、窮民が八戸に現れるようになった。

 1750年春までに、八戸藩領内の餓死者は4500~4600人と数えられた。

 1751年には、やや落ち着いたようだ。同年の宗門改めでは、3000人が餓死したとなっている。

 この頃の八戸藩の百姓人口は宗門改めという公式記録では約3万1000人(実数は、その倍かも)であるから、記録掲載の百姓の1割が餓死したのである。ただし、餓死したのは、百姓だけであった。武士や町人は餓死しなかった。

 また、この頃から、広範に「間引き」が行われるようになった。「間引き」は、瞬く間に東北・関東に広がった。

(3)すべての人が「直耕」する「自然の世」

 安藤昌益は、猪が人間を食い殺すという地獄の惨状を目撃していた。むろん、町医者として栄養失調のフラフラ状態で八戸へ逃げてきた個々の百姓の手当をしたが、必然的に、世の中(政治・経済・社会・文化)の根本的な部分に関心を持たざるを得なかった。

 当初(1745年)は、いわば「仁政」のレベルであったようだ。「民苦しみ穀種絶つときは、則ち国亡ぶ。国亡ぶる則は、国主自ら滅却ぞ。罰恥百世に殆(あやうく)す者也」と、仁なき領主を厳しく非難する程度である。

しかし、あまりの惨状に、ついには封建制度の根幹たる身分・階級を否定する思想に行き着く。

➀武士は百姓を支配する「不耕貪食の徒」と激しく非難する。士農工商の封建時代にあって、すごいことです。
②「直耕」の理想社会を説く。身分・階級を否定して、すべての人が鍬(くわ)で直に地面を耕し、額に汗を流して田畑を耕す。
③身分・階級の否定は、原始共産主義や無政府主義(アナーキズム)に通じるものがある。
④江戸幕府は、百姓を搾取するため儒教を利用している。儒教への批判、とりわけ幕府公認の朱子学を強烈に批判した。
⑤安藤昌益は「直耕」という言葉に加えて、「互性(ごせい)」という言葉を大切にしている。異なるものがお互いに依存し合っている。そのバランスが崩れたから、猪飢饉である。猪飢饉だけでなく、人と人の関係、人と生物、人と自然、この世の人・生物・自然、すべてはバランスある依存関係にある。つまりは、生態学である。最近では、生態学、エコロジーからの安藤昌益を評価する声が高い。共産主義者、無政府主義者のレッテルよりは、エコロジストのほうが受け入れやすいからであろう。
⑥私は、著書『自然真営道』のタイトルから推測するのだが、安藤昌益は、「極めて素朴な自然の世」を夢見たのだろうと想像する。

 共産主義者が読めば安藤昌益は共産主義者になるし、無政府主義者が読めば無政府主義者になるし、エコロジーに関心が深い者が読めばエコロジストになる。後世の〇〇主義者の主観的思い入れを省けば、大量餓死、間引きを目前で日々目撃していれば、「こんな世の中、根本的に間違っている。何から何まで間違っている」と思うだろう。「何から何まで間違っている」とは、存在している政治・経済・社会・文化は全部間違っている、ということに行き着く。すべての政治・経済・社会・文化を排除すれば、残るのは「極めて素朴な自然の世」である。

 一応、『自然真営道』の中から、有名な部分をわかりやすくして紹介しておきます。

……平地に住む人の人倫は農作物を耕し、山里に住む人の人倫は薪や材木を取って平地の人に出し、海浜に住む人の人倫は魚を取って平地の人に出し
……平地の人も山里の人も海浜の人も過不足なく、どこにも富もなく貧もなく、上もなく下もなく
……上無ければ下を搾取する奢欲も無く、下無ければ上にへつらいこびることも無し、故に、恨み争うことも無し、故に、乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立てて下を刑罰することも無く、下無ければ上の法の法を犯して上の刑を受けるというわずらいも無く
……儒教の五徳五倫、士農工商の身分などの利己の教え無ければ、聖賢愚不肖の隔ても無く、下民のぶしつけをとがめて其の頭を叩く士(さむらい)無く、孝不孝の教え無ければ、子を溺愛する父も無くまた子を虐める父母も無し
……是れすなわち自然五行の自為にして天下一にして全く仁別無く、おのおの耕して親を養い子を育て、一人これを為せれば万万人がこれを為して、貪り取る者無ければ貪り取られる者も無く、天地も人倫も別つこと無く、天地生ずれば人倫耕し、この外に一天の私事為し。是れ自然の世の有様なり。

(4)八戸での活動

 安藤昌益は、前述したように、1744年(44歳)には八戸で開業していた。評判の町医者であったから、藩の命令で、櫛引八幡宮の流鏑馬の射手を治療したのであった。また、藩の家老の病気を治したこともあった。

 医師としての腕前だけでなく、その博識も評判であった。上級武士の家で講義をしたり、天聖寺では連続講演をしたりした。八戸の安藤昌益の学識は有名になった。

 そして、安藤昌益は「転真敬会」という会をつくった。「転(天)」の「真」を「敬」うという意味です。そして、「転(天)道」は、与えることをして取ることをしない。

 安藤昌益の門人には、八戸藩の藩医、上級武士、中級武士、城下の商人、神主など八戸藩の指導的立場の人々がズラリと並んだ。八戸藩以外にも、江戸・京都・大阪・北海道・福島からの門人もいた。

 なお、門人の筆頭は、神山仙庵である。彼のひたすらな努力によって『自然真営道』は後世まで残ったと言ってよい。

 安藤昌益の人柄は、自分の考えを押し付けない、聞かれれば答えるというスタイルであった。また、古代の聖人の書物の訓詁学的解説はまったくしなかった。町医者としては患者から治療費を貪欲に取ることは一切なく、生活は朝晩の飯と汁物以外は食べず、酒は飲まず、妻以外の女性とは関係しなかった。他人をほめることもそしることもなく、自分を自慢することも卑下することもなく、身分の高い者をうらやんだり、身分の下の者をさげすんだりすることもなかった。家計は貧でもなく富でもなく、借金もないが貸金もない。季節の贈答は世間のしきたりに従っていたが、内心は正しくないと思っていた。歌舞音曲のようなことも一応はやっていただけという程度であった。特異なことは、人の顔を一度見ると、その人の心や職業をピタリと当てたという。

 1758年、安藤昌益は八戸を去って、生まれ故郷へ帰る。お別れに八戸でシンポジウムを開いた。全国から安藤昌益の門人が集まって質疑応答がなされた。

 八戸を去った理由は、「道に志す者は、都市繁華な地に留まるべきではない」と説明されている。それだけが理由ではなかろう。すべての人が鍬で耕す、医者だろうと学者だろうと鍬で耕す、「直耕」は安藤昌益の根幹思想である。自ら実践しなければならない。「一人これを為せれば万万人がこれを為して」という信念であろう。ただし、生まれ故郷で何をしていたのか不明である。

 1762年に亡くなった。猪飢饉の数十倍の大悲劇をもたらした天明の大飢饉を見ずに亡くなった。
 
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。

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