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<医療過去未来>「正しい死に方」とは何か・同調圧力が「規律」に進む時代②

●「カネがない」結論を美化するピンピンコロリ願望

 このシリーズで提起しておきたい問題をあらためて示しておきたい。前回は、やや情緒的に筆者が抱えている問題意識を伝えた印象があり、もう一度、整理しておきたい。第1は、「美しく、潔く、苦悩しない死にざま」が、なぜ同調圧力、あるいは規律としてこの社会を覆うようになったのかを探ることであり、それが「延命医療の否定」を正義として随伴させていることへの強い違和を、改めて提起しておきたいということ。

 第2は、医療や介護でとくに目立ち、急ピッチで進む「あり方」の押しつけ、同調圧力、規律化の段階が、「標準化」という名のもとに、「暗黙の社会的基準」へと格上げされていくことと表裏をなしていることを示しておきたいからだ。

 その2つの視点からこの論を進めるが、むろん筆者は社会学者でも医学者でもない。主観と客観がない交ぜとなり、さまざまな場所で破綻を生じさせることは百も承知。しかし、尊厳死や平穏死の旗振り、延命医療の一律的な否定、ピンピンコロリの願望から「常識」への逸脱も、主観と客観が混然としたものであり、それ自体の「世論」は、この提起を否定できるものではないと筆者は思う。

 もう一点、留意しておきたいのは、こうした同調圧力、規律化への源流となっているのは、高齢化社会への不安であり、それは財政破綻への不安でもある。しかし、これは議論しても仕方がないという結論を示しておく。カネがかかるから無駄な医療はやめよう、無益な長命はやめようというのは、すでに結論である。結論を議論しても仕方がない。結論を美化するために、標準化や、暗黙の社会的基準が構築されることが問題なのだ。カネがないなら、「早く死ぬ」ことばかり言わずに、「カネをかけない」それなりの豊かな老いがあることの言い分や証拠も取っておこうではないか。

 前回示した、『死すべき定め』の著者、アトゥール・ガワンデは、人々が生きることを大切に思うなかで、その定めは「死んで行くこと」だけで、「死に方」は尊厳のありようとは別であることを明確に語っている。延命医療の拒否が、尊厳死であるとか、平穏死であるとか、自然死であるなどというイデオロギーにはつながらないことを遠回りかもしれないが、指し示している。

 老化と死のプロセスは、医学的経験に変えて、医療の専門家に管理されてしまってはならないとは語っているが、それが延命医療を拒否することに飛躍してはいない。それどころか、「人はゆっくりと老いていくことを、どこか恥ずべきことのようになった」と指摘している。「ゆっくりと衰える」いう彼の洞察は、医学、医療、介護がこうした「ゆっくりと衰える」構造に無関心であり、無力であることの指摘につながっている。

●「標準化」がコンプライアンスに単純化される意味

 ここでは最初に、第2の視点、「標準化」と「暗黙の社会基準づくり」のステップを、もう一度疑いの眼差しで見直してみよう。「標準化」とは、医療・介護の世界で普遍的に使われる用語。今や「標準化」は、ある診断、治療法、入退院、ケア方針、介護施設入退所、看取りまでも、各分野、各工程で作成されることが当たり前となり、「標準化」することがこの世界で起こるさまざまな対処の「標準化」になっている。

 標準化するとどうなるか、それはマニュアル化されて教科書の主柱となり、やがてそれはコンプライアンスとして、人々を縛りつける。むろん、社会には遵守事項があり、それを無視しては秩序が成り立たないことに満ちている。酒を飲んで車の運転をしてはならない。これは法令違反だが、日本社会では法令違反とコンプライアンス違反を「常識」が分けているらしく、飲酒運転は後を絶たない。ばれなければ罪は問われないが、コンプライアンスには反している。だが、罪悪感は薄い。

 医療・介護分野でこのコンプライアンスのニュアンスが微妙なのは「身体拘束」だ。ここでは略して「拘束」と言うが、医療制度下では拘束は明確に違反として「標準化」されているわけではない。しかし、拘束はできれば避けるべきものとしての考え方は“標準的”ではある。医療施設のなかには、この標準的考え方、つまり「拘束は避けるべきである」を標準化しているところもあるだろうし、方針として拘束抑止はマニュアル化され、コンプライアンスとなっているところもあるかもしれない。しかし、医療制度では全体の合意として認知されているかは微妙だ。

 ところが介護保険制度では、拘束は原則、禁じられている。拘束の実態が把握されると介護報酬は得られなくなる。つまり介護施設では、明確なコンプライアンス違反である。

 これらの「身体拘束」の問題から、2つの例題を示してみよう。ひとつは、10月末に大手メディアの報道で明らかにされた、認知症患者の入院時の拘束問題。報道では、公的研究所の研究チームの調査で、認知症患者が入院した際、約3割の患者が何らかの形で拘束を受けていたことが明らかにされている。なかでは、病院における認知症患者の拘束の実態はこれまで明らかにされていなかったと述べられている。

 数値を事実として報道することに異論はないが、病院おける拘束は明らかになっていなかったというのは、その裏側に、「認知症患者の拘束は介護施設では原則、禁じられている」→「なぜ医療施設では許されるのか」→「何らかの標準化されたマニュアルが必要ではないか」→「拘束は患者の尊厳を守る観点から法令順守の規定を作るべきではないか」との主張がにじむ。実際、その報道では、老人福祉学の専門家(大学教授)に「残念」と語らせたうえで、病院での拘束を減らすため、病院の意識を変え、防止に向けた検討会の設置、リスク管理のマニュアルづくりを進めるべきだとのコメントを引っ張り出し、記事の主張を代弁させている。

 こうした記事から読み取れるのは、病院における「認知症患者の拘束」の妥当性、必然性の議論の必要を問うのではなく、リスク管理のマニュアルづくりへと議論がジャンプし、そのことに何の躊躇いもないことである。拘束は正義に反するので、きっちりとしたコンプライアンスをつくって防止すること、それを医療施設に徹底すべしと、結論は簡単である。また、識者が語る「リスク管理」については、具体的な説明がされていない。認知症患者に対するリスクか、施設側のリスクか、両者のリスクなのか。医療施設で認知症患者の拘束を禁じてしまうと、経営上のリスクは避けられないだろう。報道側にそこまでのリスクの想像力はあるだろうか。

 ここで施設側のリスクを徹底的に分析していけば、やはり認知症患者の入院受け入れ自体がリスクであり、それはひいては認知症患者の認知症以外の疾病治療に関するリスクであり、そのリスクを回避するには原疾患とも言うべき認知症そのものに対して、「人権に配慮した適正な療養」が必要となり、それは「緩やかな死」すら人権違反となるという論理を生み出すかもしれない。まして、自らが認知症になった場合の、例えば安楽死を望むようなリビングウィルがあればどうするのか。この報道のように結論を単純化すれば、認知症リスク管理のためのマニュアルを標準化し、拘束させないための「緩やかな死」否定もあり得る。

●本末転倒のリスク管理-身体拘束の範囲

 もうひとつの事例は、ある介護施設従事者の勉強会で論議されたものだ。介護施設は、前述したように拘束は原則禁止である。例題は、介護施設で2人の認知症男性高齢者が深夜、争い始める。攻撃的な高齢者Aと逃げ回るBと仮定する。1人で夜勤対応していた介護者は、AによるBへの暴力行為を回避するため、AがBの居室まで押しかけないよう、Bの居室に外から鍵をかけた。そのうち、Aの興奮も収まり、自らの居室で眠りに入ったため、Bの居室を解錠した。その間、約20分。

 専門家ではない筆者からみれば、この事例における介護者のとった行為は妥当にみえるが、介護施設の「標準化されたコンプライアンス」では、当該介護者のBの居室施錠は、Bへの拘束に当たる。この勉強会報告では、この事例は「身体拘束」に当てはまるものであり、当該介護者には注意を与えるべきだという、管理者側の見解が添えられている。

 この場合、コンプライアンス違反の事例として「施錠」が拘束であるとの認識を強調することにウェイトが置かれ、介護者がとった緊急避難の妥当性はまったく論議されていない。例えば、この介護者が拘束を回避するため、Bの居室施錠をせず、そのためAによる暴力で深刻な事態が生じたかもしれないという「リスク管理」はまったく考慮されていない。「身体拘束」は否定されるべきだという理念から、どのような行為が拘束に当たるかをマニュアル化、標準化していき、その行為が拘束として認識される場合は、どのような2次的な事態が予測されても、「身体拘束」であり、注意管理義務の対象となるのだ。

 最初の事例は、マニュアルづくりをイージーに発想すると、果てしなくその標準化作業は拡大する可能性の危険を示すものであり、2番目の介護施設の事例は標準化されたマニュアルが、リスク回避には本末転倒となる示唆を与えるものだ。それでは、なぜこのように「標準化」が疑いももたれず、「暗黙の社会的基準」になっているのだろうか。その意味では、『高瀬舟』における役人の思惟がヒントになる。「標準化」は、考えることの放棄ではないのか。次回は「標準化」の背景を探ってみよう。(幸)

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