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<医療過去未来>「正しい死に方」とは何か・同調圧力が「規律」に進む時代⑥

●市場の問題を高齢者に転嫁する構図

 前回、私は「生活系医療費」あるいは「生活支援医療費」という造語で持論を展開した。それに至るまでの道筋で浮上したのは、現状の医療・介護費用の増嵩が、常用されているように、あるいはすでにそれが常識と言われているように「高齢者の増加」「高齢化に伴う……」というフレーズで括っていいのかという疑問である。まるで慣用句になったような「高齢化によって……」という言葉は、そのまま流通させて問題はないのだろうか。

 例えば高齢化していなかった時代、1人当たりの高齢者に対する医療費は相対的に今より小さかったのはなぜなのか。前回も指摘したように、問題は高齢化そのものではなく、(少なくとも日本で)高齢化に至るまでに進歩した医学、医療技術の進歩のコストが、高齢者にも丸々か、あるいは高齢者に標的を絞って適用されているという実態である。

 そう考えてくると、医療産業、あるいは商業経済ベースでみると、高齢者は消費者であり、市場なのである。高齢者が市場と認識されて経済が進展していくなかで、その市場を支える予算が、財政が破綻を来すからといって、それを増え続ける高齢者の問題にすり変えていくという景色を私はみる。

 確かに日本の高齢化は進んでいる。世界に例をみない速度で進んでいることは事実だが、費用の増大が「高齢者が増えた」と短絡して問題とするのは、全面的に間違いとは言わないが、少なくとも公平ではない。医療や医療技術の進歩を享受し、それを国民にあまねく分配したからこそ、費用は増えたのだ。それを「高齢者医療費問題」と、したり顔で語るのはいかがか。米軍基地の大半を押しつけておいて「沖縄問題」というが如し、白人の人種差別に伴う抗議運動である公民権運動を「黒人問題」というが如しである。

 そうやって考えてみると、例えば「無益な医療」の代表格のように言われる胃ろう、中心静脈栄養、あるいは人工呼吸器は、現状のような医療費問題が出てくる以前にはなかった技術である。それを使わない選択をするかどうかで、「自然死」「平穏死」「尊厳死」などという言葉に翻弄され、「次代に負担を残さない」ために、同調圧力をかけられるというのはいかにも理不尽である。問題は「高齢化」ではなく、「生かす技術コスト」の進歩とその適用、そしてその費用を維持することが難しくなった「開発が生んだ費用の問題」である。

 その問題意識を蔑にしたまま、長生きや長命を尊崇しなくなるほうが、よほど不健全だと私は考える。そのため、コストを高齢者医療・介護から削るという短絡な考え方、それを具体化するための「尊厳死」や「平穏死」という言葉は、そのロジックを辿れば不健全だと筆者の目には映じる。

●命の問題と生活の問題

 高齢者の選択はそうした「以前にはなかった消費を生む技術」を使って、「命」の問題ではなく、「生活していけるか否か」で考えられるべきである。生活者としてゆっくりと生きていくとの選択は当然あるべきであり、その選択を「平穏死」「尊厳死」と囃されて急がされる理由は何もない。

 では、「以前にはなかった技術」はなくても、生活の支援があれば別に高齢者問題は起きないという例をみてみようではないか。

 今回のテキストは、2018年6月に出された 『医療経済の嘘』に拠ってみる。著者の森田洋之氏は、一橋大学経済学部を卒業後、宮崎大学医学部を経て医師になった人。09年から北海道夕張市立診療所に勤務、同所長なども勤めた。夕張市の医療環境変化や、高齢者医療費の分析、研究を通じて、在宅医療、地域医療、などの医療政策に積極的な発言をしている若い医師であり、医療経済学者ともいえる。14年に「医療崩壊のすすめ」と題した講演で話題となった。

 基本的に、財政破綻した夕張市が、それによって医療崩壊し、高齢化率も45%を超えるような状況のなかで、実は高齢者を取り巻く環境は医療も含めて、大きな質的破綻が起こっていないことに着目し、それが意味するものは何かを社会に問い続けている。著者には無礼かもしれないが、簡単に説明すれば、「高度な病院医療」に、「生活を支える医療・介護」を対置し、「『住民の近くで生活を支える医療』は今後訪れる高齢化社会にとっての救世主になり得る存在」だとの主張が、この著書全体を貫いている。

 夕張市は07年に財政破綻した。同時に、171床の夕張市立総合病院は、19床の診療所になった。病床数は一夜にしてほぼ10分の1になったわけだ。森田氏によれば、市外には総合病院もあるし、救急車でも飛ばせば札幌市までは1時間ちょっと。ドクターヘリでの搬送体制も確保されている。つまり、市内から総合病院が消えたといっても、受療環境が根こそぎなくなったというわけではない。一方で、炭鉱の閉山以来続いていた人口減少、とくに若年者人口の減少には歯止めがかからない状況が続いている。16年には高齢化率は48%になった。

 ただ、夕張市の人口の推移は、01年に1万5115人だったのが、病院が閉鎖された07年には1万2807人、12年には1万387人となっている。しかし、右肩下がりカーブは65歳以上高齢者では緩く、01年5283人、07年5284人、12年4643人で、75歳以上になると2151人→2569人→2722人と増加している。75歳以上の増え方と65歳以上の減り方をみれば加齢によって移動していることが明らかで、つまり高齢者はほとんど、夕張市からは出ていっていないことがわかる。

 一方で、高齢者1人当たり診療費は減っている。病院がまだあった05年には夕張市の診療費は83万9000円で、北海道平均81万3000円を上回っていた。それが12年には夕張市79万7000円、北海道平均86万円で、北海道平均を下回っただけでなく、全体が右肩上がりで推移していたものが、夕張市は下がっているのだ。森田氏は、この本のなかで、夕張市の死亡総数と死亡率は、財政破綻前後で差がないこと、病院閉鎖後も高齢者の移動は少なく、また他の自治体に診療費を移転させるような事態も多くはないことを明らかにしている。

 ただし、顕著に違いが出ている側面もある。それは死亡総数に占める死亡原因だ。老衰死が増えている。国内全体でも老衰死は増えていることは前回も紹介したが、夕張市では全国平均のほぼ2倍14%が老衰死である。こうした状態について森田氏は、老衰を死亡診断で安易につけるわけにはいかないことを説明したうえで、夕張市では医療担当者と患者、患者家族とのコミュニケーションがうまくいっていることを示唆している。

●生活支援があれば老衰が増える

 森田氏の本から読み取れるのは、看取りの体制や、団地型ライフスタイル、つまり独居型高齢者の増加などの地域性が多様にあっても、根底に「絆」という生活支援があれば、医療過疎、医療から遠いところでも高齢者はゆっくりと生きていけるということである。それは医療環境が豊富な、都会地の独居高齢者にも適用できる話だ。

 しかし、そうした生活支援がどうして根付かないのだろうか。やはり、それは施設、それを支える技術の進歩に要因があるように思える。生活支援は「絆」がひとつの要素であることは想像に難くない。そうすると、実はその絆づくりは少々、現代の生活環境では面倒くさい。それをえいやっとやっつけるためには、施設での一括医療・介護、機械任せの延命措置のほうがやりやすい。

 しかし、そのためには費用がかかる。費用はかかるが、「生活支援」「絆づくり」などという面倒くさいことよりはマシだ。それって、高齢者が馬鹿みたいに費用を使っているという問題意識で切り捨てていいのか。何かとんでもない錯覚と、誤解が生じていないか。医療・介護の質をあげると費用が嵩むと思い込んではいないだろうか。

 高齢者は、「平穏死」「尊厳死」と追い立てられなくても、ゆっくりとあまり費用をかけずに死んで行くこともできる。それをもっと議論し、考えてもよいのではないだろうか。みんなでカンファレンスして、包括ケアの次は「看取り」って、急がなくてもいいではないですか。

 次回は、がんの終末期医療が、全体の死生観に与える影響を考える。(幸)

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